1908年
(明治41年) |
0歳 |
二月一五日、長野県更級郡稲荷山町九四〇番地にて、
父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる。本名は秀蔵。生家は洋品小間物商を営む。 |
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1914年
(大正3年) |
6歳 |
稲荷山尋常高等小学校に入学。 |
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1918年
(大正7年) |
10歳 |
父の商いの発展にともない、町内の八五五番地に転居。 |
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1921年
(大10年) |
13歳 |
稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業。
半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業。 |
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1922年
(大正11年) |
14歳 |
仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選。
また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける。 |
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1928年
(昭和3年) |
20歳 |
母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、
師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわる。
この年、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表。 |
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1929年
(昭和4年) |
21歳 |
九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く。
「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用。
この年に創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿。
「一平全集」発行される。 |
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1932年
(昭和7年) |
24歳 |
岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、
漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成。
若々しい作品の発表で当時の漫画界に旋風を巻きおこす。 |
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1933年
(昭和8年) |
25歳 |
読売新聞社に嘱託として入社。
横山隆一の妹・英と結婚。
新漫画派集団「漫画年鑑」を発行。 |
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1936年
(昭和11年) |
28歳 |
「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、
最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される。 |
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1938年
(昭和13年) |
30歳 |
満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行する。
この年、読売新聞社を転職してフリーとなる。 |
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1940年
(昭和15年) |
32歳 |
「新日本漫画家協会」設立。設立委員として、
機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる。 |
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1941年
(昭和16年) |
33歳 |
太平洋戦争勃発。 |
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1942年
(昭和17年) |
34歳 |
執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる。 |
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1943年
(昭和18年) |
35歳 |
海軍報道班員として南方を一巡する。
帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加。 |
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1945年
(昭和20年) |
37歳 |
応召(九州・熊本県)。
終戦。妻子の疎開先の上田市に復員後、上京。漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会。
「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う。 |
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1946年
(昭和21年) |
38歳 |
月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く。 |
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1947年
(昭和22年) |
39歳 |
読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始。 |
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1948年
(昭和23年) |
40歳 |
戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる。 |
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1951年
(昭和26年) |
43歳 |
サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣される。
会議終了後、米国各地を取材旅行する。
この年、「漫画」休刊となる。 |
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1953年
(昭和28年) |
45歳 |
「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタート。 |
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1954年
(昭和29年) |
46歳 |
文化人訪中団の一員として視察旅行へ。郭沫若ほか中国要人と会見する。 |
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1955年
(昭和30年) |
47歳 |
第一回「文芸春秋漫画賞」選考委員。 |
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1956年
(昭和31年) |
48歳 |
日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ。 |
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1957年
(昭和32年) |
49歳 |
流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療。 |
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1958年
(昭和33年) |
50歳 |
退院。那須高原にて静養。 |
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1959年
(昭和34年) |
51歳 |
日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演。 |
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1960年
(昭和35年) |
52歳 |
五輪ローマ大会取材のため渡伊。 |
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1970年
(昭和45年) |
62歳 |
日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加。
この年、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始するなど、
日本の将来を案じて、“日本を考える啓蒙書シリーズ”を中心に執筆活動に意欲を燃やし、
以降、病に倒れるまでの著作は多数にのぼる。 |
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1972年
(昭和47年) |
64歳 |
月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任。
東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催。 |
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1973年
(昭和48年) |
65歳 |
東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催。画業の集大成として発表。 |
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1974年
(昭和49年) |
66歳 |
全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載。
この年、永年の作家活動に寄せた並々ならぬ功績に対して、紫授褒章を受ける。 |
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1975年
(昭和50年) |
67歳 |
“漫画で政治を大衆に近づけた功績”により、第二三回菊池寛賞を受ける。
この年、杉浦幸雄と共に「おんな・日出造写楽とゆきお絵展」(報知新聞社)の企画にあたる。 |
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1976年
(昭和51年) |
68歳 |
一月四日、脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院。
三月、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る。 |
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1977年
(昭和52年) |
69歳 |
東京・武蔵野療園病院に転院。同時に読売新聞社を退職。 |
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1978年
(昭和53年) |
70歳 |
この年、妻・英くも膜下出血により急逝。 |
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1979年
(昭和54年) |
71歳 |
加療中に肺炎を併発、三月二三日午前六時同院にて逝去。 |
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