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近藤日出造

更新日:2022年04月01日

 毎年、元旦の読売新聞紙上を飾っている「読売国際漫画大賞」の「近藤日出造賞」で世界的に有名な近藤日出造(本名:秀蔵)は、明治41年2月15日、長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市稲荷山)で、父・三津蔵(洋品雑貨店主)、母・くめの二男として生まれました。

 稲荷山尋常高等小学校を卒業後、昭和3年20歳の時に漫画家を目指して上京し、当時の人気漫画家「岡本一平」の弟子として修業します。

 昭和7年に無名の漫画家を中心に「新漫画派集団」を結成、昭和8年に読売新聞社に入社します。
昭和15年には新日本漫画家協会を設立し、高級月刊誌「漫画」を発行し、この本から多くの漫画家が育っていきました。

 その後、昭和39年に日本漫画家協会初代理事長、昭和40年に東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設、昭和49年には紫綬褒章を受賞、昭和50年には菊地寛賞を受賞。昭和54年3月、71歳で亡くなるまで、漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しました。

略歴

1908年(明治41年)

0歳二月一五日、長野県更級郡稲荷山町九四〇番地にて、父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる。本名は秀蔵。生家は洋品小間物商を営む。

1914年(大正3年)

6歳稲荷山尋常高等小学校に入学。

1918年(大正7年)

10歳父の商いの発展にともない、町内の八五五番地に転居。

1921年(大正10年)

13歳稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業。
半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業。

1922年(大正11年)

14歳仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選。
また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける。

1928年(昭和3年)

20歳母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、
師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわる。
この年、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表。

1929年(昭和4年)

21歳九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く。
「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用。
この年に創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿。
「一平全集」発行される。

1932年(昭和7年)

24歳岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、
漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成。
若々しい作品の発表で当時の漫画界に旋風を巻きおこす。

1933年(昭和8年)

25歳読売新聞社に嘱託として入社。
横山隆一の妹・英と結婚。
新漫画派集団「漫画年鑑」を発行。

1936年(昭和11年)

28歳「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される。

1938年(昭和13年)

30歳満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行する。
この年、読売新聞社を転職してフリーとなる。

1940年(昭和15年)

32歳「新日本漫画家協会」設立。設立委員として、機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる。

1941年(昭和16年)

33歳太平洋戦争勃発。

1942年(昭和17年)

34歳執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる。

1943年(昭和18年)

35歳海軍報道班員として南方を一巡する。
帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加。

1945年(昭和20年)

37歳応召(九州・熊本県)。
終戦。妻子の疎開先の上田市に復員後、上京。漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会。
「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う。

1946年(昭和21年)

38歳月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く。

1947年(昭和22年)

39歳読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始。

1948年(昭和23年)

40歳戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる。

1951年(昭和26年)

43歳サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣される。
会議終了後、米国各地を取材旅行する。
この年、「漫画」休刊となる。

1953年(昭和28年)

45歳「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタート。

1954年(昭和29年)

46歳文化人訪中団の一員として視察旅行へ。郭沫若ほか中国要人と会見する。

1955年(昭和30年)

47歳第一回「文芸春秋漫画賞」選考委員。

1956年(昭和31年)

48歳日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ。

1957年(昭和32年)

49歳流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療。

1958年(昭和33年)

50歳退院。那須高原にて静養。

1959年(昭和34年)

51歳日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演。

1960年(昭和35年)

52歳五輪ローマ大会取材のため渡伊。

1970年(昭和45年)

62歳日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加。
この年、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始するなど、
日本の将来を案じて、“日本を考える啓蒙書シリーズ”を中心に執筆活動に意欲を燃やし、以降、病に倒れるまでの著作は多数にのぼる。

1972年(昭和47年)

64歳月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任。
東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催。

1973年(昭和48年)

65歳東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催。画業の集大成として発表。

1974年(昭和49年)

66歳全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載。
この年、永年の作家活動に寄せた並々ならぬ功績に対して、紫授褒章を受ける。

1975年(昭和50年)

67歳“漫画で政治を大衆に近づけた功績”により、第二三回菊池寛賞を受ける。
この年、杉浦幸雄と共に「おんな・日出造写楽とゆきお絵展」(報知新聞社)の企画にあたる。

1976年(昭和51年)

68歳一月四日、脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院。
三月、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る。

1977年(昭和52年)

69歳東京・武蔵野療園病院に転院。同時に読売新聞社を退職。

1978年(昭和53年)

70歳この年、妻・英くも膜下出血により急逝。

1979年(昭和54年)

71歳加療中に肺炎を併発、三月二三日午前六時同院にて逝去。